【People In The Box】Kodomo Rengou 全曲考察
People In The Boxから2018年1月24日にリリースされたアルバム〈Kodomo Rengou〉。
リリースから2年以上経ってしまったが、このアルバムが表現していること、伝えたいこととはなんなのかということを私なりに考察してみた。
書き慣れておらず拙い文章なのですが、よろしければお付き合いください。
・はじめに
全体的にどことなく無機質を感じさせる今回の作品。
このアルバムは「子ども」を中心に、今を生きる人と社会について歌っていると考える。
ここで言う「子ども」とは、所謂インナーチャイルドに近い意味である。
昨今の社会において人は、半ば強制的に「大人」になる。
「大人」になりきれないまま、つまり心に「子どもの自分」を抱えたまま社会に出て、モラトリアム人間などと呼ばれる人もたくさんいる。
しかし、三つ子の魂百までといわれるように、人は誰しも「子どもの自分」を抱えているのだ。
そんな「子ども」と「僕」と「社会」について、極めて現実的に歌われているのがこのアルバムだと考えた。
これらを踏まえて私の考察を読んでみてほしい。
・「子ども」「僕」「社会」
ここでいう、この三者は、現実のそれぞれを指していると同時に、概念でもある。
例えば「子ども」とは、我々の子供時代、インナーチャイルドであり、イノセンスの概念でもある。
・一人称、二人称について
波多野さんは一人称、二人称を使い分けている。
どういうことかと言うと、
「大人の僕」を指し示す時には、「僕」「君」。
「子どもの僕」を示す場合は、「ぼく」「きみ」が使われている。
毎回ではないのだが、対比を強調するときに、このような技法がみられる。
(波多野さんの基本の一人称は「ぼく」なので、漢字で「僕」と表記されていた場合、上記のような技法を使っていると、認識しやすい。)
・文字の表記について
このアルバムでは先に述べたように、「僕」「子ども」「社会」について歌われている。
この三者を書き分けるにあたって、波多野さんは文字の種類を使い分けるというテクニックを使っていると考えられる。
「僕」の目線や言葉には通常見られるような漢字が織り交ぜられている。(今までのような波多野さんの語り口)
「子ども」の言葉にはひらがなが多く使われている。例えば、11曲目のタイトルのように。
最後に「社会」だが、これには、小難しい英語が頻繁に使われることがわかる。
1. 報いの一日
この曲は、「子ども時代を通り過ぎ、社会に出ようとする僕」を明示していると考える。
アルバムの一曲目であるため、聴き手にこのアルバムの方向性を示す役割を果たしている。
曲調的には割とゆったりしており、後に社会の荒波に揉まれることになる「僕」の前日譚のようなものであるということが考えられる。
・この曲における三者の関係
「僕」と「ぼく」
両者は容易には超えられない壁で隔てられている。
「ぼく」はたくさんの鍵を試し、壁の扉を開けようとするが、開く気配はない。
なぜなら、その扉を開けることができる鍵は、「僕」が持っているのだ。
おそらく、「僕」側からなら開けられると思うのだが、「僕」はそれをしない。
人は往々にして自分の中にいる「ぼく」のことを気に留めようとしないのだ。
”僕らすでに知ってるかも たぶんすでにわかっているよ”
この一節は「僕」と「ぼく」との掛け合いであり、上記のような「僕」が「ぼく」の存在を気に留めようとしていないことに対するものである。
「僕」と「社会」
「僕」は悩まされつつも社会に迎合する。
最後に ”なにがなんでも散歩へ行こう” と 一種の決意のようなものを口にする。
これは平たく言えば、社会に自分を支配されないようにしようという決意表明だろう。
「ぼく」と「社会」
基本的に「ぼく」と「社会」は直接関わることはない。
「ぼく」は社会を夢想し、壁に都市の絵を描いている。
間接的、或いは一方的な関係性ということが見てとれる。
・鍵の音
冒頭に聞こえる、鍵を何かの上に置くような音。
これは、扉を抜けた直後、つまり「大人」になったことを表している。
・曲名
「報い」
1 ある行為の結果として身にはね返ってくる事柄。善悪いずれについてもいうが、現在では悪い行為の結果についていうことが多い。
これは歌詞の中で”二日酔い” という言葉で表されている。
そしてもう一つ、”報じられる沈黙はないさ ”というフレーズ。
報じるとは、知らせると言う意味の他に、「報い」を動詞にしたような意味を持つ。
このことから、上記の歌詞は、「沈黙は報われない」と言うことになる。
ここにおける沈黙とはなにを表しているのだろうか。
この曲は「僕」と「ぼく」の関係性、「僕」と「社会」が関係し始めたことを主に表していることがわかる。
2.無限会社
1曲目と打って変わって不穏な曲調で幕をあける。
曲名の「無限会社」からもわかるように、この曲は1曲目で「僕」が足を踏み入れた「社会」(企業)について歌われているものである。
「僕」も「ぼく」も登場しない。
ただ淡々とアクチュアルな「社会」が皮肉を交えて表されている。
初めのウィスパーで語られているのは「社会」の情景だろう。
”わたが飛び出てびっくり つまり照準ぴったり ”
若干スタッカートで歌われるこのフレーズは、少しおどけたような雰囲気を感じさせる。
わたとは言わずもがな腹わただろう。
この次の、”イリュージョン〜ダクトへ” のフレーズはとても抽象的な言葉の羅列であるため、細かく紐解くのが難しかった。
そして、”ようこそ間違いの国へ” と繰り返される。
これは文字通り。
”蓋が外れてばっかり 中身丸見えがっかり ”
一人一人が簡単に情報を発信でき、それらを簡単に手に入れることができるこの時世、人々は次から次へと情報を消費する。
”虹も絵画も新聞も 紛いもの ”
これはパンチライン。歌われている通り、間違いだらけなのだ。
利益のために街は紛い物で溢れかえる。
”機械のタランチュラ ダクトへ ダクトへ ”
”産業スパイ 向かうはファクトリー ”
機械のタランチュラは無数に張り巡らされたダクトへ潜み、情報を集める。
”イリュージョン 実体のない積み木遊び ”
”イリュージョン 欲望の積み木遊び ”
「社会」における人々は、欲望を満たすために、目に見えないものを集めて積み上げようとする。
例えばそれは、金だったり、地位だったり、名誉だったりというもの。
この曲においてのイリュージョンとは、大まかに分けて、二つの意味があると考えられる。
1つ目は、真偽の定かではない不確かな情報。
2つ目は、目に見えないのに、あたかも重要だと思われているもの。(先述した金地位名誉)
両方、「社会」でしか通用しない価値観であり、見方を変えればなんの意味もなさないただの虚像なのだ。
社会は、尽きぬ欲望のため、騙し貶め合い、無限に間違いを犯し続けている。
3. 町A
町の情景をそのまま歌ったサビが特徴的な「町A」。
この曲は、社会に従事して疲弊した人々の気休めを歌ったものではないかと考える。
”ここは天国ではない〜ただのわが町 ”
のフレーズからはベッドタウンのようなイメージがなんとなく伝わってくる。
”差しあたっては 奇跡には用はない”
”アイムハッピー、ゴー、ラッキー”
多くを望まないような様が伺える。
”人は弱い生き物 死者は強い生き物 ”
これを見て、私は少し思い当たる節があった。
自殺する人の心理で、死ぬことが最良の選択だと考える、というものがある。
『この線路に飛び込めば会社に行かなくていい。』
と、いうような理由から身を投げる人も少なくないそうだ。
”天秤はこわれて子供時代に戻ったようだ ”
「大人」というレッテルを忘れ、責任だとか色々なことを放棄してしまいたい感情が現れたことがわかる一文である。
”どうかぼくを放っといてちょうだい ”
”どうかひとりにしておいてちょうだい ”
これは、人の本質的な部分からのセリフだと考える。このアルバムでいう「ぼく」だ。
同時に、「ぼく」であり「僕」だ。
”そうさ、愚かなふりをするほど ぼくは愚かではないのさ”
この一文は、ややこしいのだが、愚かなふりをするくらいなら...。ということだろう。
「...」の続きは先に述べたように、色々を放棄してしまおう。といった旨ではないだろうか。
極端な話、その放棄する手段がたとえ死だったとしても、愚かな選択ではないのだろう。
4.世界陸上
テンポが速く、緊張感のある曲だ。
世界陸上という曲名、スターターピストルを思わせるフレーズ。
急き立てるように繰り返される「はい はい はい はい...」。
曲中に何度か出てくる、「遺伝子」や「細胞」。
紛れもなく「レース」がこの曲の舞台だろう。
例のごとく、このアルバムにおいて、レース会場は「社会」だろう。
「社会」の中で「僕たち」は終わりの見えないレースをしているのだ。
それを踏まえれば、この曲の大部分は飲み込めるだろう。
”TV 見とれている隙に 理性へと忍び寄るリミット”
このフレーズは、テレビや広告などに刷り込まれた、ある種の洗脳のような状態を指し示しているのではないか。
ステレオタイプではないが、そうやって刷り込まれた固定観念が、あるべき理性を侵食する様が想像できる。
そうして「社会」に都合の良くなった人間が、盲目的にレースに参加することになるのだ。
しかし当然、レースの主催者、大元がおり、その主催者が得をする、いわば「出来レース」のようなものなのだ。
・3S政策
3S政策(さんエスせいさく)とは、Screen(スクリーン=映画鑑賞)、Sport(スポーツ=プロスポーツ観戦)、Sex(セックス=性産業)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策であり、そのような政策があったとの主張である。
この曲には、スポーツとテレビが出てくる。
まさしくこの3S政策、当てはまるのではないだろうか。
5.デヴィルズ&モンキーズ
悪魔と猿。
この曲は、身分関わらず老若男女、果ては野犬さえも巻き込む「社会」の滑稽さ、社会に踊らされている人々を表していると考える。
有名人の名前や、架空の吸血鬼、ハリウッド。
”テレビのように七色の光の大通りへ”
これらから読み取れるように、「社会」は都合のいいフィクション(紛いもの)を使って、人々の目をくらます。
何もかも忘れて踊るのだ。これは4曲目の「世界陸上」と共通する。
後半で「FOR SALE」、売りますと言われているのは、先に述べた都合のいいキラキラしたフィクションである。
しかし、「僕らを目醒めさす眩しい朝」これだけ「NOT FOR SALE」なのだ。
これを聴いたとき、感情のないコーラスの声も相まって、私はぞっとした。
”ごらんよ 空き物件の屋上からの一面の炎 ”
比喩なしに受け取ると、この場面は、容易く終末を想像させるだろう。
その通り、表面上は普通でも、本質は終末に近づいているのだ。
空き物件というのも同様のイメージを促進させている。
”ほらごらん、歴史は栄えあるハロウィン
終わりなきトリックオアトリート
さよなら ハロウィン ”
浮き足立った状況の比喩になぜ「ハロウィン」なのか。
他にも行事ごとはたくさんあるのに。
昨今、「ハロウィン」や「バレンタインデー」などがメディア、企業に煽られて、過剰な盛り上がりを見せている。
本来の趣旨よりも、利益になる部分を強調しすぎて、全く別の行事になってしまっている。
後ろには「社会」がいるのだ。
波多野さんは、このような時事的な事例から「ハロウィン」を引用したのではないだろうか。
”ほらごらん、歴史は耽美なハリウッド
終わりなきサンセットストリップ
さよならハロウィン ”
「社会」が積み上げてきたキャリア、「歴史」を、演じられたフィクションと皮肉を込めて表現している。しかも「耽美」という形容動詞まで付けて。
・悪魔
この曲における悪魔とはなんなのか。
踊らされている人々が猿なのだとしたら、悪魔は「社会」なのだろうか。
6.動物になりたい
前の4曲に比べて、一気にパーソナルな視点から歌われている一曲。
「動物になりたい」という欲求は、「僕」または「ぼく」のものだろう。
「社会」にもみくちゃにされ、とうとう逃げてしまいたい、と考え始めた。
すなわち「退行欲求」である。
歌詞のほとんどは難しい比喩も使われておらず、ある程度そのまま受け取れる。
・壊れない電話、壊れない家具
曲中で、この世にないと言われている「壊れない電話」。
電話とは、コミュニケーションのことを指していると考えられる。
約束された人間関係などない、ということだろう。
そして「壊れない家具」。
これはパーソナルスペースの充実のことではないだろうか。
整理すると、「僕」の欲求の優先順位としては、
1 「社会」からの離脱、幼児退行
2 約束された人間関係
3 パーソナルスペースの充実
ということになる。
しかし、この望みは一つも叶っていないので、「ああ 嫌になるよ」。
”ほおばるビスケット 足りないアルファベット 親切にはかなわないアルファベット”
言葉を捨てて、動物に近づく様を表しているのだろうか。
ここで言われている「動物」とは、「赤子」にも近いのではないだろうか。
7.泥棒
また無機質な曲調に戻る。
この曲は「社会」における権威(責任)の不自然さ、それに無意識に影響を受けている人々を、皮肉っぽく歌っているものだと考えられる。
比較的正面から「社会」を批判しており、改めて「社会」の現状に疑問を呈する内容になっている。
”いるようでいないようなものをあてにするんだな?いいんだな?”
”内容のあるようでないようなものでもいいんだというんだな?”
”おててをつないで一緒に渡ればいいんだというんだな?”
『お前(我々と社会)は本当にそれでいいのか?』
と、この歌詞はストレートに、現状に警笛を鳴らしている。
”退屈ちゃんと〜”
”責任くんたち〜”
このフレーズは、斜に構えたような感じで、嫌味っぽく繰り返される。
「社会」の中で頻繁に出てくる責任。
昨今の社会は、思考停止した人々が、すぐに責任の所在を攻撃するきらいがある。
本来の在り方、使われ方を超え、攻撃の道具と成り果てている。
同時に、責任の所在の方も、表面上を取り繕うだけで、本質的に何も解決していない。
つまり、現状において、責任という言葉は、本質的な意味を成し得ていないのだ。
そのような滑稽な様を、小馬鹿にするような口調で批判している。
このことは後半で、
”加害者の会で発足する被害者の会”
”被害者の中で発足する加害者の会”
という風に表されている。
”アマゾン行きのボートがでるぞ とっくに乗組員オーバー”
これは責任逃れする輩のことを言っているのだろうか。
”プランに加入しないとおいてくぞ 書類にサインしないとおいてくぞ ”
これは”おててをつないで〜”の続きの文であり、「社会」の同調圧力と排他的な考えを表している。
この曲は大きな「社会」という括りの中でも、「日本の社会」について焦点を当てているように感じた。
しかし、この曲が真に伝えたいのは、上記のような問題、現状そのものである。
『日本社会らしい』と感じたのならば、それがまさに今起こっているということなのだ。
「泥棒」という曲名には、わかりやすく「搾取する悪」という意味が込められており、「正義」とは、「悪」とはなんなのか、ということを表しているのではないだろうか。
8. 眼球都市
この曲はカタカナで表記された英単語が頻繁に出てくる。
同時に、対比の技法が随所で使われている。
その為か、細部の意味合いを汲み取るのが難しい。
まず「眼球都市」というタイトル、”視力1000.0 ワッチングユー ワッチングミー”という歌詞からわかるように、「社会」によってシステマティックに監視・管理されている現状が読み取れる。
そして、それに対する、”きみに視えるかな ぼくのハートは幾何学模様 ”のように、「個」についてクローズアップされている。
全体で見たときこの曲は「社会」と「僕」(ぼく)の対比を歌っているのだ。
スラッシュで区切られた言葉の羅列。
”点/線/矩形/曲線 フェイズ/トレース/彩色/カレイドスコープ ”
この部分は、「眼球都市」の眼に映る視界の様子ではないだろうか。
”巨大なステップ踊るコルトレーン 描くトライアングル”
”山手線 東京 乗るトレイン 円なぞれば ”
一見意味不明なこの部分だが、上の文としたの文で対比しているものと思われる。
わかりやすい部分だと、トライアングル(三角形)と円、踊るコルトレーンと乗るトレイン(韻の踏み方が良い。)、等である。
肝心な意味するところだが、「社会」と「個」(僕ら)の、差を表しているのではないか。
我々と違い、「社会」は、どこからでも監視している上に、簡単に、早急に動くことができる、と。(或いは動いている。)
ちなみにコルトレーンとはジャズ奏者のジョン・コルトレーンであることは間違いないだろう。
”天気と同じ気分で パレードはたしかエレクトリカル”
”機嫌は記号次第で 心は愛しいフラクタル”
この部分でも「社会」と「個」の対比が見られる。
おそらく、”天気と同じ気分で ”と”機嫌は記号次第で ”部分は、主格の違いで言葉が使い分けられている程度で、だいたい同じようなことを表している。(記号とは天気記号のことだと思われる。)
そして、ここで言われているパレードとは、5曲目の「デヴィルズ&モンキーズ」のパレードと同じものだろう。
それに続くエレクトリカルという言葉だが、これには明確に二つの意味がある。
1つ目は、5曲目のパレードや、「社会」のフィクショナルな様相を表している。(某テーマパークのパレードの名前ということは明らかだ。)
2つ目は、機械的で無機質な「エレキテル」(電気)と有機質な”心は愛しいフラクタル ”との対比である。
フラクタルとは幾何学模様の一つで、一部を拡大しても、元の全体と同じ形が現れる図形や模様のことである。(リンク先の画像参照)
https://pixabay.com/ja/vectors/数学-シェルピンスキー-696806/
波多野さんはこのフラクタルという言葉を使うことで、簡単には覗けない、人の心の奥深さを表現している。
”ノイローゼ/治療/処方 オレンジ/空はシアニド ”
「社会」によるノイローゼのことだろう。
このような症状を抱える人々は、往々にして「社会不適合者」と言われたりする。
オレンジとは夕焼け。
シアニドとは、シアン化物、毒物である。
つまり、致死的な夕焼け。
ただでさえセンチメンタルになる夕焼けは、ノイローゼの人から見たら致命的なのだ。
”背骨はS字 とんがり帽子 目は逆さ十字 ”
”ねじの回転 そう、きみは異分子 ワッチングユー”
中世に行われていた、魔女狩りを想起させるこの部分は、「社会」に不適合とみなされる人間を監視している様である。
背骨は〜逆さ十字部分は、魔女を表しているのだろう。
”電気と同じ気分で 調子の波はパラメトリカル”
この部分が一番難しい。
パラメトリックとノンパラメトリックの違い | 統計学が わかった!
統計学に疎い私なりに考えた結果、この文は、
調子は、定量的な統計データを元に左右される
ということではないかと考えた。
つまり、精神が機械的な様である。
統計データとは「社会」による、常識や固定観念の刷り込み等で、「社会」に都合の良くなった状態を表しているのではないだろうか。
”紀元は記号次第で テーブルマナーはシアトリカル”
改めてそれぞれの単語の意味を浚ってみる。
紀元とは
ある出来事が起こった年を始点として、それから何年経過したかで時間を測定する、無限の紀年法である。 紀元 - Wikipedia
この紀年法には多くの種類があり、当然基準はバラバラである。
紀元は記号次第、という部分は大体理解できただろう。
シアトリカルとは、演劇的である様、すなわちフィクションに近い意味だろう。
テーブルマナーとは、それぞれの食文化が培ってきた決まりに従い、食事の際に用いられる道具を適切に使い、食事を共にする人々に敬意をはらう行儀作法のことである。テーブルマナー - Wikipedia
つまり、マクロな視点から見たら、社会の常識、固定観念などというものは、演じられている虚構に過ぎない、ということではないか。
”燃えるまぶたから垂らす万国旗 引きずり出したら挨拶するのさ ヘイ ベイブ ”
メロディが変わり、強調されている印象のこの部分。
この曲において、まぶたとは「眼球都市」のものを指すだろう。
そして、日本において万国旗とは、イベントやお祭り、手品等で使われることが多い。
燃えている都市(社会)とイベント、このキーワードから導き出されるものは、先にも出た、5曲目のデヴィルズ&モンキーズではないか。
同曲のサビでも”ねえ ベイビー”と歌われている。
おそらく、この部分は、改めて5曲目の意味合いを丸々挿入したということだろう。
”きみに視えるかな ぼくのハートは幾何学模様 ”
いくら「社会」がシステマティックになり、人々を掌握しようとしても、心を完全に支配することはできない。
以上のように、この曲は、対比の技法を使用し、「社会」と「僕ら」の関係性を表している。
9.あのひとのいうことには
この曲は「僕」が、人生・「社会」を達観した、起承転結でいう転の部分だろう。
”嵐の過ぎ去った荒野 ”
と、あるように、「僕」は「社会」から抜け出したということが分かる。
”いかれた猛獣使い 傷つけられたら抱きしめかえすの”
まず、いかれた猛獣使いとはなんなのだろうか。
”傷つくことに夢中だった ”
と、あるように、この猛獣使いは、達観した「僕」だろう。
同時に、猛獣とは「社会」だということが分かる。
「社会」に対して、皮肉・嫌味を言っていた「僕」が、このようなセリフを言うくらいには達観していることが分かる。
しかし、猛獣とは「社会」のことだと言ったが、「社会」の中の、パーソナルな部分に注目したら、きっとそれだけではないことがわかる。
猛獣とは、自分の中のネガティブな部分のことでもあるのではないか。
”容赦はできないのさ それしかみえない
もう期待さえしなくていい
これから起こることぜんぶ
息が止まるくらい美しい ”
息が止まるくらい美しい、とは単なる比喩ではない。
「それ」とは死のことを指しているのではないだろうか。
具体的な死、だけではなく、社会的な死、や概念的な死という意味も含めた死だ。
”ひとはそれを 狂気というけど ”
この「完璧ではない世界」で、死を選ぶということは、世間一般からしたらどうかしていると言われる。
しかし本当にそうだろうか?死を一つの脱出の手段と考えた時、この「社会」において、「僕」を守る(或いは救う)には妥当な選択肢なのかもしれない。
いや、これは私の曲解に過ぎないかも知れない。
”ねぇ、きみはほんとうに知ってた?
この完璧ではない世界で
人生って一度しかないこと ”
これは、「社会」と向き合い生きている人、「社会」に適合できなかった人等、全員に問いかけている。
どちらにも、違う刺さり方をする歌詞になっている。
人生一度きり、としばしば使われているが、我々は「ほんとう」に、その意味を考えたことがあるだろうか?そして、その考えは本当に正しいのか?
答えはないが、改めて考えてほしい。
10.夜戦
この曲は、「社会」から抜け出した「僕」が「ぼく」に近づく様を表している。
6曲目の「動物になりたい」という欲求がとうとう本格的に現れ始めている。
自由になった、とも言うかもしれない。
「僕」は”壁のように分厚い雲 ”がある空に、目を凝らしている。
壁とは1曲目の「報いの一日」で出てきた壁と同じものだろう。
「僕」は今一度、隔てた壁に意識を向けたのだ。
そして窓を抜け出して、近づいていく。
”風が止んだら、いっせいに揺れるブランコ ”
「風」とは、9曲目の「あのひとのいうことには」でいうところの「嵐」と同義なのではないかと私は仮定した。
つまりこの部分は、忙しない「社会」から抜け、再び「ぼく」の存在が現れることを指し示しているのではないか。
ブランコを動かしているのはイノセントの「ぼく」である。
”山の斜面 勢いづいた子供達を 風が追い越したら”
ある意味、達観して(「社会」・「人として」の人生の山を越え)、「ぼく」の存在が大きくなる。
「社会」(風)は、そんな「僕」を置いていく。
「社会」は「ぼく」を必要としていないし、「ぼく」は「社会」に迎合できない。
”夜空に触れる 僕らの靴 墜ちていくよ きみのもとへと ”
この場面は、「僕」が「ぼく」のもとへ、近づく(退行、逆行)様を表している。
イノセンスを思い出すのだ。
そして、「僕ら」とあるように、これは一ヶ所(一個人)だけで起きていることではない。
”昨夜未明〜みあたらなかった ”
ナレーションのような立ち位置の、語りのパート。
当然、落下物とは「僕ら」のことだろう。
誰かがそれを指摘(問題視)するが、証拠は見つからない。
人が、社会不適合となり、次々と堕ちてく現状、その性質上、表沙汰にはなりにくいので、解決することはない。
もしかしたら「堕ちていく」とは、自殺の意味合いも含まれているのではないだろうか。
”画面のなか 神が手にした松明 暗視スコープ 緑色に揺らめいている ”
まず、この部分はそのまま繋げて読むのでなく、
「暗視スコープの画面の中 神が手にした松明 緑色に揺らめいている」
と読むべきだろう。
単語を拾った感じ、この歌詞は、自由の女神を想起させる。
同時に、この曲の場面は夜中心なので、「緑色」とは暗視スコープ越しの視界であり、普段は見えない部分に焦点を当てている、という意味もあるだろう。
改めてこの部分を意訳すると、水面下では自由の炎が燃えている、といったところだろうか。
同時に、「夜戦」という物騒な曲名を踏まえると、暗視スコープに映る景色には、銃口が向けられているような印象も受ける。つまり神は、自由は...
この曲は、人知れず「堕ちていく」人々のことを歌ったものであると考えられる。
「夜戦」というタイトルは、見えない形で行われている、「社会」との、或いは「自分」
との戦いのことを指しているのかも知れない。
曲名クリックで視聴可能。
ひらがなで「かみさま」と表記されているこの曲は、曲調も壮大になり、より本質的な視点から「この世界」について歌われている。
「僕」「ぼく」「社会」しか出てこなかったこのアルバムで、始めて別の立場の「かみさま」と言う存在が出てくる。
簡単な文に多義的な意味が含まれているので、読み取るのが逆に難しい。
・神
まず、概念的な「神」の存在を定義する。
人々が信仰する神は様々だが、概念の「神」は1つである。
「神」とは人が、一方的に存在すると決めつけて、信仰する。(あるいは、存在しないとする。そう考える場合も、「存在しない」と、定義することになり、一つの「存在しない神」という概念ができる。)
人が「神」という存在を認知したとき(信仰の有無に依存しない)、概念としての「神」は一つ細胞を増やす、こういうことだ。
一般的に神は平等などと言われるが、正解であり間違いである。
概念としての「神」とは、たくさんの主観(エゴ)が集まってできた、中立と正反対の存在である。
この曲の「かみさま」も同義であると思われる。
・三位一体
「僕」「ぼく」「社会」
もうお気付きの方も多いかも知れないが、実はこの三者はそれぞれがイコールの関係、即ち三位一体を為している。
まず、「僕」と「ぼく」が同じなのは理解しやすいだろう。
そして、当たり前だが「社会」とは「僕」の集合体である。
夜が明け、朝になった。
場面が大きく転換していることが分かる。
”かみさまはいつだって優しい嘘をつく ”
このアルバムにおいての「かみさま」は、「救い」を意味していると考えられる。
「僕ら」はそれぞれ、主観で「かみさま」を作り上げているので、「かみさま」は、自分に優しい言葉をかける。
しかし、その言葉は所詮自分で作り上げた気休めでしかないのだ。
”困り顔で 予行演習を上から眺めてるんだろうな ”
予行演習とは、
”おはよう おはよう 今日はいい天気だよ
1日頑張ってね いってらしゃい
おはよう おはよう
美味しい夕食作って待っているから
いってらっしゃい ”
この平穏な言葉たち、これらが「救い」なのだ。
人々は「救い」を胸に、家を出る。
”この世界に誰が幕を引くというの?”
この世界とは大まかに分けて、
社会(「個」から見る社会)、
社会の集合体である世界(広く見た社会)、
「個」の中の世界、
の3つを指していると考えられる。
絶え間なく膨張し、連続していく「この世界」に終わりはあるのか。
”滑稽な鳥の墜落をみてた ”
滑稽な鳥とは、10曲目の「夜戦」で堕ちていく人々のことだろう。
”かみさまだけが嘘をつく ”
かみさまの嘘に背中を押され、終わりのない日々は続いていく。
12.ぼくは正気
アルバム最後の曲。
子どもの「ぼく」に別れを告げる曲である。
色々なものを見て、経験して、考え抜いた「僕」が出した答えなのだろう。
”完璧な一日に追いついてしまったら
太陽に焦がされてとりみだしてしまうかな ”
この部分は、「イカロスと太陽」を彷彿とさせる。
完璧な一日とは、理想的な世界(救われている状態)のことだろう。
いざそれが叶うとなったら、
”目蓋を〜息づくものたち”
これは、形ある現実と、実体のない心のことだ。
”真昼でも暗い森のなか散策するたびに
もう二度とは取り戻せないぼくに会うのさ ”
森とは、自分の心の中のことだ。
”ばいばい かわいかったうない”
うないとは、昔の子どもに見られる髪型のことである。
この部分から、インナーチャイルドへの依存を断ち切っていることが分かる。
弱くて幼い自分と捉えてもいいかもしれない。
”ある日、急に音楽が鳴り止んでしまっても
ひとがみんないなくなってしまった 今となっては ”
たとえ